このSSは『OS』のネタバレを含みます。
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鈴虫の声が、焦る足音を消してくれる。
長い回縁は中庭から降り注ぐ柔らかな遮光を飴色に跳ね返す。 古い屋敷でも、年季の入った痛みよりそこに重ねられた年月の厚みをよく感じさせるのは、どれもこれも家人や複数の使用人の手入れによるものだろう。 男はただ一人、家人にも使用人にも勘定されない人間でありながら、勝手知ったる様子で廊下を進んでいく。すれ違う使用人も、通い詰めるようになった初めのうちは訝しげな目を向けてきていたが、数年も経てばすっかり存在自体に慣れきっていて、今では各々の仕事の手を止めることなく、軽く会釈を垂れるのみだった。こちらも逐一気を遣わずにいられるのは有難いことだ。彼らのうちでどのような引き継ぎがなされているのかは全く想像が及ばないが、男が目的の部屋にいる間は、よほどの火急の用でない限り、扉が開かれることはない。
廊下の果てのひとつの部屋の前に立つと、少し息を整えて、声もかけずに障子を引いた。 東向きに開け放たれた採光窓から光が溢れ、思わず目を眇める。逆光で焼け付くような黒いシルエットが、ぱたんと本を閉じた。
遅刻だ、と開口一番に指摘される。急に呼び出す方が悪いんだとか中身の無い言葉を返しながらも口元は笑みを形作る。約束を取り付けていたのは事実だが、一人住まいでないこの家で、この部屋の扉を開ける可能性のある人間は一体何人に至るだろう?足音か、扉を開ける速さか、すわ気配か。 声を掛けずとも自分であると勘付いてくる気安さが嬉しく、試すような真似をするのはいつものことだ。 どれくらい進んだ、ぼちぼちだな解読終わったやつから読んでくれ、と、いつもの間違い探しのように、言葉のレパートリーだけが違うルーティンのかたわら隣に椅子を並べる。柔軟剤も無い時代にもちろん香水やらコロンやらを纏うような色気を覚えることの無いうなじから、他人の家の石鹸の香りが漂った。
「これ、きみに渡しとくな」